「あの御曹司様、ねぇ」
「ええ、おかわいそうに…」
「あんな殺され方、あんまりじゃあない」
「まだいとけない子なのにねぇ…」
竜ヶ峰帝人には、親がいない。
代々、村の神社に仕えて祓師をしている家系の中で珍しくもない、一人っ子で親の愛情に埋もれていた、特別に何の加護を受けたでもない、子供だった。
古くから星霊だの悪霊だのという伝説がはびこるこの村の中心である神社において、宮司や巫女・祓師の家系にすらあまりもたらされない“神のご加護”というのは、それ故に神妙なるもので、希有なものだった。
両親もごく普通の優しい人柄をしていたから、神気に応えるためだとか云々といって、巷の同年代の子供以上の教育を帝人にさせていたわけではなかった。
生まれて5年もたたない頃の話だから、帝人の中に何かが潜んでいて今もまだ眠り続けている、なんていう話もあり得るのかもしれないが、それでもその時点では、祓師首領として家督を継ぐ帝人は、どこにでもいる平凡な子供だった。
子供だったのだ。
子供の頃だから世界の物事を見たままにとらえ、帝人にとって未知なる物は見える世界に見えてくるものすべてだった。
将来祓師として働くことになる帝人は、将来のことを知らずとも、親の袂でその仕事を垣間見ている間にそれなりに神器の使い方をなんとなく覚えたし、使う目的もなんとなく分かっていた。
社が存在する山の向かい、村に存在する2つの山のもう片方。神が祀られる山に相対するように聳える山には、鬼が棲んでいた。
鬼は人の精気を喰らい贄として生きる。日の国で蔓延る鬼が、とりわけ集まって勢力を高めているところが、この村だった。
村の人々は鬼を嫌い神に縋り、能力ある祓師に助けを請うた。出来上がったのが“竜ヶ峰家”だった。
竜ヶ峰家の役目はただ一つ。村と鬼の山とを繋ぐ境目である、村の外れに建てられた“開かずの扉”を管理し、それでもにじみ出る鬼の脅威を祓うこと。
祓師の役目は鬼を抹消することにはない。それは竜ヶ峰の初代当主と、鬼の首領によって結ばれた締約だった。
故に竜ヶ峰初代当主は多くの村人から忌み嫌われるようになったが、逆に一分の村人からは崇められる人物だった。
多少の犠牲で、人間は生き存えることができるのである。
その“多少”の加減は、ただ鬼の機嫌と祓師の判断力との平衡にかかっていた。
すなわち誰かが鬼の行為に口を出しすぎて鬼の機嫌を損ねてしまったとして、その機嫌を直すのは口出しをした人間次第なのである。
その者が犠牲になってしまうときもあれば、犠牲にされず別の誰かが無差別に犠牲になってしまうときもある。それが祓師であったとしても、変わりのないことだった。
つまるところ帝人の両親は、鬼の逆鱗に触れ、喰われてしまった。
鬼は人の精気を喰らい贄として生きる。鬼によっては肉まで喰らうこともある。血液を眺めるのが好みだという鬼もいる。
鬼の残虐性は物理的なもの、心理的なもの、様々だ。物理的な痛みに苦しむ人間の様を眺めて愉しむとか、心理的な傷みに苛まれる人間の様を観察して愉しむとか。それが短期であろうと長期であろうと、鬼には関係なかった。
人間が生きる数倍の時間を、鬼は生きる。山の上から人間の生き様を眺めて飽きて蹴散らして眺めてまた飽きて。それを惰性に繰り返す。
祓師の歴史にはたくさんの記録が残っている。記録の中に、同じ特徴の鬼が何度も現れていた。もたらされた惨事の詳細の記録には、失われた人の情報が連なる。倉の中に整然と並べられている綴りはもう読み返すのもおっくうになる程の量だった。
そしてそれはこれからも、竜ヶ峰家当主の手記という形で記録され続けていく。
精神を喰われては、体躯は生きていたとしても、それは人として生きていることにはならない。
体躯はあるのだから、そういう解釈もできた。しかし幼い帝人には、そういう細かい考え方はできなかった。
もう少し成長してからの事実であれば、きっと両親の表情、瞳、言葉を思い出す度に涙する未来があっただろうと、帝人はぼんやりと思う。
瞼を閉じて、その存在を畳の上に横にして物言わず眠っている以上、その存在は人として無いに等しいものだった。
帝人には親が、居なかったのではない。存ないのだ。
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