「……なあ」
「んだよ」
「…………………………教室どこだっけ」
「……」
盛大なる溜息一つ。
「さっき調べてくるっつって走り去っていった元陸上部員に聞けば」
「あ゛…あの…それがさ…わかんなくてさ……」
えへへ、と頬をかいて笑う同級生。条件反射のごとく、丁度持っていた文庫本で丁度いい位置にある頭にチョップをお見舞いしてやる。ごすん。
「―――ったあー―!!!!!! あっにすんだよ謙一朗!!!」
抱えた頭を上下に揺すったり涙目になってみたり俺を睨んでみたり、うるさい金切り声を上げる同級生を見下ろした。
「あのな……」
もう吐く溜息はない。
「職員室に聞きに行った陸上部員は誰だよ」
「俺だよ、つぅか小学校のそんなくだらない肩書きなんか、いちいちつけるなよ……」
知るか、事実だろ。つぅかそんな文句ももう何度目だ。のろまな口調に混ざる聞き飽きた文句を俺は一蹴する。
「で?書いてあるだろ、教室の」
呆れ8割で言うと、奴はやはり肩を竦めてあはははは、と笑う。
それはかなり見慣れた、俺の怒声をわかっているからの所作だが、奴はどうやら俺が叫びたくなる程の馬鹿をやらかしたのか、そうかそれなら思い切り怒鳴ってやるよせいぜい耳塞いでろ!!
「あー―――ごめん、それがさぁ、わかんないんだよ」
「何が―」
俺の頭の中ではカウントダウンのようにチクタクチクタクと、針の音がしている。さあ一体どんな馬鹿をほざくのか。
「職員室の場所が」
「――馬鹿だろ」
―――叫ぶ気も起きなかった。
この、幼馴染みの、北条亮佑は、恐ろしく方向音痴である。小学校からのつきあいで、よくよくそれは解っていた。
例えば一緒に遊びに行く時の待ち合わせで、東門に集合と言ったのに西門に来ていた。地元から離れた都会で迷わないように携帯でガイドしながら案内しているというのにいつの間にか完全な逆方向にいたり、太陽が昇る方向にあるのが”東洋”だと言っているのにヨーロッパから見て日本は”西洋”であるという。これは少し違うか。後は、授業で教科書の今開いている左ページの、と言って右のページを見るとか、社会見学で、ガイドが左の方の、と言っているのに右を見ていて混乱していた。確か小学3年生のときドッヂボールで、右上から来る、と叫んでやったのに真逆の左後ろを振り返って避けてくれた。存在してもいないボールを避けるんじゃねぇよ。
要するに、基本的に、東西と左右が逆に認識されている。後は、前後と上下が怪しい時があるのだが、不思議なことに奴は絶対に、北は間違えない。北が解るのが唯一の救いだ。北を前にして右が東だということを納得させられれば、完璧なはずだ。
しかし残念なことに奴は左利きなので右利きの俺とは感覚が違って、左右を説明する時に特に苦労する。
「箸を持つ方が右だよっっ!!!!」
と言っても、奴は箸は左で持つのだ。慌てて訂正した記憶が何度もある。
だから、知らない場所に来たらすぐに迷うって解っていたから、
「地図渡したろ…………!!?」
しかし残念なことに奴にとっては地図などはあってもあまり意味がない。
なぜなら左右が解らないのだから。
「ああ、右と左、どっちがどっちて書いてくれたやつ?」
だから学校で配布された地図に前後左右の方位記号みたいなものを画いて、5枚くらいにコピーして渡した。高校生にもなって、そんな世話焼かすなよ。
ていうかほんとにいい加減左右覚えろよ。
「ごめん………ごめん謙一朗、忘れたんだ。あれ」
「……」
物忘れが激しくなった、というか、よく抜ける性格に拍車がかかってきた、いやつまりは物忘れがかなり激しくなった親友に、俺はまた頭を抱える。なんだよお前はどこぞのじいさんか。
あああ、頭が重い。
「……仕方ないヤツだな…」
「あは、は………、ごめんなさい、ほんと、ごめん………」
奴は本当にぐだぐだとノロノロと繋がらない言葉を並べるのが大の得意だ。昔から何も変わっていない。
謝罪をつらつらと並べる目の前の図体の隣、眠気で気だるい体を並べた。
「…………………」
もう出ないと思っていた、小さめの溜め息をひとつ。
目下の光景に目を瞑って、俺はとりあえず職員室を目指した。
+++
「あれ」
教室割りをしてあるホワイトボードの前に、立ち止まる。
「……あれ」
「書いてないな」
「……書いてないね」
ぅえええ、とのろまな奇声を発っする同級生を無視して、俺は職員室を見渡す。
うん、手頃な先生発見。
「すいません」
清楚なイメージの女教師が振り返って、小さく口元が動いた。
「書道部って、今どこでやってますか」
「……書道部、ええと、3階の被服室かその隣の和室だと思うんだけど」
あ、だめかな。
直感は当たる方じゃ無いんだが。
「いえ、今日新学期初日で、普段のとは違うところでやってるみたいなんですけど」
「ぁ……ああ、ごめんなさい。だったら、顧問の先生のところじゃないかしら。ええと、」
「えと、て、寺嶋先生、ですか」
「、おぉ………」
後ろからのろまが口を挟んできた。吃りながらもテンションの高いのろまな陸上部員に驚く。ていうか体半分俺で隠して、どこの人見知りだ。
「ええ、そう。寺嶋先生はご自宅がとても近いから、きっとそちらじゃないかしら。……あなたも?」
そう言って、隣に出てきた奴を見た。正確には、覗き見た。
「あ、はい。入部希望者です」
「道は、すぐだから案内するわ」
「あ、いえ、道知っ」
「はいありがとうございます、ぜひ、お願いします先生」
え、知ってるよ俺、と小声で喚きたてるが、お前の道案内なんざ信用できるかと一蹴してやる。
当然だろ。
しかし俺が話しかけた先生はそう言うも、色々と不審な点が残る。こそこそと俺らが喋ってるのに気付いているのかいないのか、半分だけ背中を向けたままちょっと待っててね、と言った。
「教頭先生、少しよろしいでしょうか」
そのまま教頭の座る机の前に立った。
教頭に話しかけている間、ぐるっと人気の少ない職員室を注視する。ここにいるのは俺たち生徒とその先生と俺の知らない先生が2人くらいと、教頭先生だけ。
後は喫煙席くらいに誰かいるかな。…ああ、……誰だっけなあ、あの人。
「ごめんなさい、案内するわね」
こちらに戻ってきた女先生は申し訳なさそうな表情で言った。
それから、ただしね、と付け加えた。
「裏の西門からが一番近いの。上履きでも行けるくらい。だから正門じゃなくて西門から行きます」
あ、そう。
「外靴に履き替えなくてもいんですか…」
「うまくいけばね。でもちゃんと外靴を履いていきましょうね」
先生の前だから。と、その"先生"は付け加えた。
「そうね、ではいきましょう」
+++++++
藤棚の正面、西門を抜けて郊外に出た。桜の樹が点々とする住宅街だ。放課後の生ぬるさが桜の色を誇張していく。
まだ花は盛りではないが、嵐に撒かれたのだろう散った花びらが、アスファルトの黒に映える。
「……」
俺は、前にいる先生と北条の後ろ3mを歩いている。他意はない。
ただ、風の強い日、俺はどんなことを思いながらこの道を行くのだろうと、思い耽っていたいだけだ。
4月の終わりには、噎せ返るような淡い色でここは埋め尽くされるだろう。
ふと見上げた、灰色の空がそんな光景に見えた。
「この色合いが好きなんだ」
「ほら、そこの―――」
「―――いつかさ、行ってみたいなって思うんだ」
「聞いてる?」
――聞いていたくはなかった。
「あのさ、昨日ね、」
――耳を、塞いでいたかった。
それでも否応なしに聞こえてくる音全てが、頭の中で反響する。
だから北条の声にすら俺は正確に反応できなかった。
「――謙一朗?」
「……」
5mくらい向こうから、北条が不思議そうな顔をして歩いてくる。
「悪い、………ぼーっとしてた」
「みたいだね。保健室?」
「いや、平気」
小首を傾げて、少し見上げてくる仕草がデジャヴだった。
その頭を掻き回してそんな幻を振り切ってやれば、奴は俺の手首を掴んで、顔半分を覆っていた手を退かした。だから見たくないんだって。
「そっか。じゃあ行こう。そこだから」
くるりと振り返った先には、これまた不思議そうな顔をした女教師が立っていた。
荘厳なしかし質素な槇の樹の下、黒い瓦の前、垣根越しに青竹が見える。
「…でかっ」
「寺嶋先生、カネモだもん」
視線で家の広さを見ようと追っていたら、築地から5m以上離れて見ても視界に全体が入らない事が判明。
馬鹿かこの家は。
平然と言う北条に、また溜め息。
「………何坪?」
「ウン百?」
「………………………聞いた俺が馬鹿だった」
「あはは」
北条が笑う。隣で女教師も笑った気がした。ポーン、とインターホンを鳴らす指を横目で見た。
築地の向こうで桜の花が揺れていた。その向こう、生ぬるくて灰色の空が俺の心に、何かを落とした。
+++
「両名、確かにお預かりしました」
「では、私はこれで失礼します」
「ご足労ありがとうございます」
「いえ」
女教師は一礼して、玄関口を去っていった。それを北条と寺嶋先生と、見送る。
「、さて」
槇の下をくぐって消えたところで、寺嶋先生は俺たちのほうに向き直る。
「積もる話もある。稽古中だが、構わないだろう。入りなさい」
「はい!」
北条が返事をして満足そうに笑う、寺嶋先生は北条の小学時代からの書道の師だった。
門下生である北条は俺が書道部に入ろうかなんて言い出すや否や、では早速部活動を見に行って入部届けをだそう、なんてことになったのだ。
そして何の運命の廻り合わせ、北条に聞き出せば我が高校の書道部顧問は寺嶋先生であった。
そんな北条と寺嶋先生と俺は、先生用の机なんだろう、電気のついていない冷たい炬燵に足を突っ込んでいた。
今日はそんなに寒い訳じゃないが、これはちょっと悲しくないか。霞んだ若葉色の炬燵蒲団を見て思う。
「君とは初めてだね。亮佑が今まで連れてきた友達の中にはいなかった。ええと」
「尾田謙一朗、です。初めてですよ」
寺嶋先生は手元にメモ紙を持っていたから、書きましょうか、とペンを受け取ってフルネームの漢字を書いた。
「謙一朗君か。いい名前だね。……君は書道部入部希望者、でいいのかな?」
「はい、まぁ」
俺の今の立場は、寺嶋先生の私塾の入塾希望者か、学校の書道部入部希望者か、どちらかだ。もちろんどちらもということもある。
その辺の話を言うのかな、と予測した。
「そう、それじゃあ言っておこう。私は生徒に対する呼び名は言い易さで決めるから、苗字だったり名前だったりはたまたまったく関係の無い渾名をつけてしまったりすると思うけど、構わないかな?」
……………そんなこと言われても、なんですが。
「君が嫌うなら気を付けるのだが、まあ、唐突すぎたかな。すまなかった。これから一応は私の門下に入るわけだから、時間のある時にでも考えておいてくれ」
「……は、い…」
見事に予測を裏切ってくれてありがとうございます。なんですかその質問第一号として斜め上な質問は。
俺が応えに躊躇していると、件の寺嶋先生は悪びれるでもなく両手を胸の前で合わせて、目線を泳がせた。いや、泳がせたんじゃなく、空いた席を探して少しさ迷った。
「さて、今日は初日だから、各々何でも好きなものを好きなように書かせてるんだ。亮佑、君も用意しなさい」
好きなように、と反芻して目を輝かせた北条は、立ち上がろうとして片足の膝を立てたまま口を開く。
「何でもって、何でもですか?」
そうだね、と寺嶋先生はにこやかに笑う。
唐突に、着流しの色と炬燵蒲団の彩りが、昔の記憶をまた掘り起こそうとしていたから、そんな幻影をこれから世話になるであろう墨の色で塗りつぶした。
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