12歳。帝人は、祓師だった。
「よお、帝人。今日も仕事か?」
村の通りを歩く途中、声をかけられた。ちょっと迷って、声のかけられた方向を見遣る。
「…買い出しだよ。今日の分のご飯」
「そんなのお手伝いさんにさせろよ。たくさんいるんだから」
あそこの娘さんかわいいんだぜ!!お前は知らないだろうけどな!!
人の家の、人間について道の真ん中で堂々と言ってのける彼は、帝人の幼なじみである。
紀田正臣。本当に小さい頃から遊び・学びを共にしてきた親友である。
しかし幼なじみとはいえ、いくら相手が自分の家のお手伝いさん、つまりは侍女、いや代々お手伝いに奉公しに来ている人たちを顎で使うような、つまりは一人の人間としての立派な人権を軽く見ているような発言は、許し難い。
「…そんなの、させられるわけないじゃない。あの人達はちゃんと別の仕事をしてくれてるんだし」
まだ子供である竜ヶ峰家当主を支えるために、周りの人間は帝人にはまだ処理しきれない仕事をこなしている。
これまで家のことや神社のことなど、あまり手伝いが手を触れなかったところまで任せてしまっているので、せめて身の回りの家事はやらなければと、こうして夕食の買い出しに出ているのである。
「ってもお前最近付き合いわりぃー」
当然だ。自分でもできることを少しずつ増やしていってるから、昔と比べて友人と遊ぶ時間は少なくなる。今は学舎からすぐにでも帰って仕事に取りかからなければ、寝る時間がない。
寝る時間が減ると、健康が害されて心気が落ちると神社から叱責の声が降りるのはもう経験済みだ。
しかも叱られるのは帝人本人ではなくお手伝いさん側ときている。一度無理をした帝人は心から反省した。
「正臣が下働きに来てくれるなら僕もちょっとは楽になるよ…」
「だから俺ん家で飯とか食っていけって!飯代とか要らねぇから!」
親友のこの言葉が、代わりに家を護ってくれという下心なんて無いものだと、帝人はよく分かっている。
しかし万一そうだったとしても、彼の家丸ごとを、たとえ彼の一生分だとしても、鬼の手から護りきれる自信はないこともよく分かっている。
しかしそれ以上に、神社の者から離れたところで友人と仲良くやっている子供について、神社が悪く思っていないことは知っている。
帝人が出かけている間、彼らから見えないところで小さく無力な次期当主が何をしているのかと、ひどく気に懸けてくれていることも知っている。
だから帝人は、必要以上に外を出歩くことを控えるしかなかった。
「あはは、悪いよ、ごちそうになるなんて」
幼い頃は、気兼ねなくたくさんごちそうになっていたのだけれど。
「おばさんのご飯が恋しくなったら、また行くよ」
今は、ちゃんとお手伝いさんに行き先と帰る時間を伝えてからじゃないと、また余計な心配をかけてしまうのだ。
「おうよー。いつでもいいぜ!」
二人して満面の笑みを浮かべて隣り合った肩をぶつけ合って、声を上げて笑って。
それが二人の約束の形だった。
「で、どこに買い出しに行くんだよ!」
「あれ、正臣、家のお仕事の最中じゃないの?」
「今休憩!」
休憩って名前のサボりじゃないよね、と言いたげに帝人が怪訝な顔つきをする。
正臣の家は、村に数ある工芸品売りであり、店がある商店街を束ねる役目を持っている。
「大丈夫大丈夫!トロい帝人の買い物を急かすぐらいの余裕ある休憩だから、さあ、行こうぜ!」
「どういうことだよ…」
急かさなくては家の人に怒られるんじゃないだろうか、そうなら急がなければならない。急いで早く正臣を家に帰さないと。
いかんせん、子供なのだ。弱い。
例え自分が祓師であろうとなかろうと、保護者がいて保護者に護られて当然の、存在なのだ。
民家が並ぶ通りを、食材探しに店が並ぶ商店街へと二人して歩いて行く。
と、ふと正臣が帝人を振り返って言う。
「あ!団子食いに行かねぇか!?」
「え!? でも、急がなきゃ…」
「大丈夫だって!団子買って、食いながら買い物すれば!」
駆けずった正臣が指さした先には、団子屋ののれん。昔からよく通っているところで、村の子供はみんな常連である。
帝人はみたらし団子が特に好きだ。
「…でも僕ちょっとそっち用のお金持ってない」
事実だ。こういう寄り道をしないためのストッパーに、懐事情を利用する。余計な買い物をしない、いやできないから余計に時間を費やさない。
だというのに、甘いものは財布もお腹も別腹なんだぜ知ってるかと、正臣はにこやかに笑いながらのれんをくぐった。
「おごってやるから!! みたらしだよな!?」
「えええ、ちょっと待ってよ、ええ…」
帝人が必死に異論を唱えようとするも、者ともせずに草団子とみたらし二串ずつ!! と店の人に指を立てて言い放つ。
「……」
しかし。
「あれ?おっちゃん?」
正臣は首を傾げてもう一度声をかけてみるが、店の中から団子屋の主人がはい、まいどと答えてくる様子はなかった。
背筋に悪寒が走る。
「………!!!!」
それだけではない。何か、良くないことが起きる。尋常ならない澱んだ霊気のようなものが、その引き戸の向こうから感じられた。
こえれまで体感したことのない感覚だった。これまで鬼に出会ってきたとき感じてきた悪寒とは比べものにならない。むしろ初めて生身の鬼に対峙したときの恐怖よりも、勝る恐怖。
何が起きるのか。鬼による何かか。それとも事故か。それともただの気の迷いなのか。
(なに、あれ)
帝人は眼を見張る。
厨房へと繋がる奥の引き戸から、赤黒いもやのようなものが見える。あれは何だ。
(…――!!)
そのもやは瞬く間に大きくなっていって、いや、こちらに近づいてきて、正臣の正面に降り立ち、そのまま彼を飲み込もうと―――
「正臣どいてっ!!!!」
「…へ?っみか、」
いけない。懐から魔祓いの札をとりだす。親指に歯を立てて滲んだ血を札にぬんだくって、正臣の前に回り込んで、厨房とこちら側とを隔てる机に上って、その戸に対峙する。
そうまでして、目の前にした引き戸には、何もなかった。
赤黒いもやも、おぞましい雰囲気も、ない。
「帝人っ…?」
「っは、きの…せい…?」
何もない、かに見えた。
「ぅわっ…!!」
引き戸が向こう側から倒されて、黒い影が現れて帝人に向かって戸板と一緒に覆い被さってくる。
紛れもない。鬼だ。
(とりあえず、札っ…!?)
札を鬼の額に貼り付ければ、ひとまずは抑えられる。とりあえず戸板に潰されないようにと倒れてきた戸板を目で追っていた瞬間、横から木の棒のようなものが鬼の顎を直撃した。
「がッ……!!」
そして同時に、その机の下、厨房の入り口付近、人が倒れているのを見つける。
突然の横槍に何をしているんだと、その横槍入れた本人を見遣っていると、やはりその正臣の方に注意がいった鬼が彼の方に向き直る。
正臣は机を乗り越えて床についていた。よかった、それならこの主人にも気づいているだろう。鬼にこの主人が踏まれないように、というか正臣はなんて自殺行為なことをしてくれるんだ、そういうことで頭をいっぱいにさせながら鬼をもう一度見遣って考えた。
木の横槍は鬼の手によって折られようとしている。
(あの破片を振り回されたら、)
「ばか早く!!」
しかし正臣の一声で、彼の意図を察する。ああなるほど。ごめん。謝罪の言葉を胸に繰り返しながら、帝人は倒れてきた戸板を足場にして傷がふさがりかけた親指に再び歯を立てる。
竜ヶ峰家の血には神気が宿るという。
明確な根拠があるとすれば、実際に祓師の血を染みこませた布や木やこういった札というのは、魔除けとしてそれなりの力を発揮することだ。
そういう職を代々行っているということ以外は至って平凡な家庭なはずだが、確かに竜ヶ峰家は祓師として確かに能力があるので、魔祓いの能力の根本がその血の中にあると言うことなのだろう。
「うぐっ…あぁぁぁぁあ"あ"あ"あ"っっっ」
「はっ、はっ…」
鬼の額に血濡れた札を貼り付けると、途端鬼の動きが止まる。こうなると、縛っているものがそのまま拘束力を弱めさえしなければ、鬼は思い通りにできなくなる。一切無害だ。
床を確認すれば、主人は横の方に除けられていた。鬼に踏まれる前に正臣が引っ張り出してくれたようだが、大丈夫だろうか。
「おいっだれかっ……!!」
その正臣が人を呼ぶ声がした。大人達を呼んでくれるらしい。
帝人はとらえた鬼を眺めた。
別に何の変哲もない。眼が赤黒く澱んでいて、黒い2本の角が生えていて、鼻が高くて、舌が長くて、犬歯が少し鋭くて、全体的に骨張っている。
この鬼は特別に何かの能力に特化したわけではないようだ。何かしらの能力に優れているなら、札一枚で抑えられるはずがない。
まあ、まだ決めつけるのは時期尚早だ。はやくこの鬼を消して、倒れていた主人の具合を調べて、厨房の奥を調べなければ。
「…さよなら」
呟いた刹那、鬼の見開かれた眼が揺れ、顔が歪む。人間ならば、見る人誰しもが心痛める、悲しそうな辛そうな表情だ。
人間、ならば。
帝人は札を抑えている手とは逆の手で、腰紐に括り付けた鈴を外して手に取る。ちりん、と細い音が響く。店の入り口から風が入る。鬼の躰が白く霞む。きらきらと光る、氷の結晶のような粒子に砕けて、そしてもう目に見えぬ程の塵になって、風に溶けていった。
「……さよなら」
もう一度呟いて、床に降りようとした時。
人の集まりの声がした。
「竜ヶ峰様!!」 「祓師のお坊ちゃん!?」 「みかど様!!」
自分を呼ぶ声だった。
「え、?」
近くに詰め寄ってきた正臣を横目で見遣って、どうしてさ、と呟く。
「帝人!お前はもういい!おじさん達呼んできたから、お前はその怪我どうにかしろ」
「え、え?」
何故か怒ったような表情をした親友は、帝人の躰を軽々と担ぎ上げて店の椅子に腰掛けさせた。
何がどうなっているのか、自分を心配そうに見る人々の隙間から、見知った祓師達が出てきて、机の向こう側へ行ったり厨房の中に入ったりするのを混乱する頭のまま見ていた。
その中で、一人の男が帝人に声をかけてきた。
門田京平。分家出身というわけではない。素質があるとか何とかで、祓師になったらしい。
「よくやったな、後は俺たちが済ませておくから、お前は傷を癒せ」
ぽんぽんと帝人の頭を撫でて、正臣に目配せをする。その正臣は、任せてくださいと頷いた。それを認めると門田は颯爽と店の奥へと入っていった。
そういえば正臣も怪我がどうのって言ってたな。何のことだとぼんやりと思って脚を見ると、絶句した。
「……!!!」
猫に引っかかれたって具合じゃない。膝の少し上のあたり、両の太ももに何かで引っかかれたような傷がある。服を引き裂いて皮膚がえぐり取られて、紅い鮮血が沸々と溢れ出ている。
意識し始めると猛烈に痛い。
原因は分かった。札を貼り付ける直前、鬼が木の棒を折って、そのまま帝人の方に振り払ったのだ。そのときの木の破片、あるいは爪による傷だ。
「いっ…!!」
「…何だよ、今気づいたのかよ。どんだけ集中してたんだよ」
「あ、まさおみ、待って…!!」
汲んできた水に雑巾を濡らして絞って、消毒しようとしたのだろう。その手を止めて、鈴を持っていた手のひらを握りしめる。
それで帝人の意図を察したらしい。
「ああ、爪な。大丈夫だ。これ神水を持ってきてもらったから、まとめて消毒できる」
鬼の爪で裂かれた傷は、“消毒”しないと体中に毒が染みこんで、一ヶ月もしないうちに死に至ると言い伝えられている。残っている事例は無いが、用心に越したことはない。
神水で毒を洗い流すのも一つの方法だ。帝人はそれを聞いてほぅと息をつく。
同時に傷口に当てられた布が、水が、滲みる。痛みに顔を歪めた。それでも親友の気遣いに、素直に謝罪と感謝を紡ぐ。
「っ…そう、ごめん、ありがとう」
「いいってこと」
ぶっきらぼうに言う正臣の表情は暗い。眉間にも皺が寄っている。
帝人自身、鬼の出方に対して一瞬遅れてしまった自覚がある。正臣が隙を作ってくれた理由はそこだと判断した。自分が一瞬の迷いを見せてしまったために、正臣に余計な心配をかけてしまって、結果現にこうして怪我をしてしまった。
「…ごめん、正臣」
目尻が熱くなるのを、傷が滲みるせいだと言い訳をつけて、もう一度言葉を零す。
零れた言葉は小さすぎたのだろうか、正臣は何も言わずに、傷口に包帯を巻いていった。
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