人知れず、琥珀は眠る


その後、団子屋に入り込んでいた鬼の脅威はすべて祓われて浄化された。鬼の霊気にあてられて気を失っていたらしい主人も祓いを受けて快復した。
一部壊れた家具もすばやく直された。
脚の痛みですぐに立てない帝人は、その無事を見届けることもままならず、祓師が用意した輿に乗せられて自宅へと戻っていた。
昼食は駆けつけてきてくれた村人達が作ってくれたのをいただいてしまったし、件の団子屋からもみたらし団子が届けられた。

「なんか変な日だったなぁ…」

陽も傾いた夕暮れに染まる自室の中、みたらし団子を堪能し終えた帝人が呟く。
正臣にあって、団子屋に入ってからというもの怒濤のように物事が通り過ぎていった。
こうして他人にされるがまま過ごすというのは何とも居心地が悪い。

「変なってなんだよ。祓師であるお前がちゃんと鬼を祓って、お前は無事じゃないけどおっちゃんたちは無事だった。変じゃねぇだろー」

ま、この俺が隙を作ってなければお前は間違いなくその程度の傷じゃーなかったろうけどな!!
相変わらずの調子で我賛美せよと言わんばかりに語ってみせる親友は、事件があった先ほどからずっと帝人に尽きっきりだった。差し入れのみたらし団子も帝人と一緒にほおばっていた。

「それに一日はまだ終わってねぇぞ~」

「口にもの入れながら喋らないでよ」

帝人が言い終わらないうちに正臣は団子を飲み込んだようで、にんまりと笑ってはっきりとした声で言う。

「お前んとこに奉公しに来てるお嬢さんがたに愛をささやくための時間が!あるじゃないか!」

「…巫女さんになんてこと言うの」

もっとも、お風呂を沸かしてくれたり、戸締まりの確認をしたり、お祓いを求めに来る人たちの受け答えをしたりしてくれる人たち、ちなみに男性含む、は一概に“巫女”ではないのだが。
それでもこの家が神を祀る神社の境内に位置しているのは確かで、すなわちこの場所は神聖な場所であるに変わらない。よってこの家の当主として不純な考えは排除したい。
ちゃぶ台に向かって神事をまとめた本を見ていた。これは昔から、帝人にとって勉強の一つだ。夕食をとって社の仕事をする前の日課である。
しかしながら今日は帝人一人では歩けないため、正臣やお手伝いさんがつきっきりでこれからの帝人の行動を補佐することになった。

正臣は自室と流しとをつなぐ廊下の、人気のするらしい方向を、誰かかわい子ちゃん通らないかなぁ、なんて言いながら見ている。
あと半時もすれば、昼食をお作りしますよ、と誰かがやってくるはずだ。

「…そういえば、帝人」

その正臣が不意に帝人を呼ぶ。
口調はいつもの軽いものではない。不審に思えたが、廊下を見遣る彼の表情は見えない。帝人は彼がこちらを向くのを待った。

「鬼が出てくるの、なんでわかったんだ?」

「…え?」

ちゃぶ台の向こう側にいる彼はやはりあちらを向いたままだったが、帝人が何も答えないでいると、体はそのままで顔だけ少しこちらに向けて言った。
正臣は笑っていた。

「まるで予知したみたいに、俺の前に出たじゃん。カッコよかったぜぇ~」

茶化すような言葉だが、その瞳は笑みを含んでいない気がした。
正臣の色素の薄い瞳が、心底楽しそうに、嬉しそうにする瞬間を知っている。逆に、心底憎悪を露わにし、あるいは怒りを満たした瞬間を知っている。
だから楽しさで煌めくことのない瞳と、彼のいつもの軽口が矛盾しているようで、その真意が帝人には分からなかった。

とりあえず帝人は素直に、今日のこの顛末を振り返ってみた。それが正臣の考えるところを探るための布石になるような気がした。
団子屋についてからの、感じたこと、見たこと。
思い出すと、自然と背筋がふるりと震えた。

「変な話だから、笑わないでよ」

正臣はよく人の話をなんだよそれ!とけらけらと笑うので、予防線を張りたくて、少しおどけて言うと、

「笑うかよ!」

なんて、綺麗に笑った。



















「…お店の人が出てこないから」

「おう」

「だからただ単にやな予感がした、だけだと思ってたんだけど」

「おぉ」

正臣は、ちゃぶ台に向き直ってあぐらを掻いて、じっと無表情で帝人を見つめたまま、ぽつぽつと紡がれる言葉に相づちを打つ。

「何か、今までにないような感覚だった。怖いって言うか、変な気分って言うか」

「きもだめしとか」

「そんなのよりも、もっと怖かった」

「ぞくぞくしたのか?」

ぞわぞわって。正臣は、背筋をぐっと伸ばして、躰を震わせてみせた。

「…なんか、それどころじゃない、感じ」

体の感覚は遠かった。確かに背筋は震えた。ぞくぞくした。尋常ではない寒気・悪寒・霊気をあの引き戸を見たとき、感じた。
しかしそれよりも、脳に直接届く恐怖が、強烈だった。初めて生身の鬼に対峙したときの恐怖よりも、人ならざるものが目の前にそびえ立ったとき感じた恐怖よりも勝る、圧倒的な恐怖。
何が起きるのか。鬼による何かか。それとも事故か。それともただの気の迷いなのか。分からなかったが、それでも何か良くないことが起こりそうなことは確かだったから、何も考えなかったけれど。

恐怖で瞼から涙が零れるのを許さない程、体の震えさえ忘れてしまう程、感じ取ったその空気以外のすべてを見聞きすることを許さない程、その霊気しか“見る”ことができなかった。

「気がついたらあの、戸板しか見えなくて」

「…」

「その戸板から、なにか出てるのが見えたんだ」

「鬼じゃない?」

うん、と頷く。

「赤黒い、………何か」

恐る恐る言うと、正臣は相づちも、頷くこともしなかった。
それから、見えたすべてのことを話した。感覚的なことは初めだけで、その後はまるで恐怖が慢性化したかのように、何も感じなかったからだ。
正臣は何も言わないまま、途中で腕を組んだり、頭を掻いたりした。帝人はもしかして信じてもらえていないだろうかと、少しだけ悲しくなった。

「…なるほど」

結局帝人が話し終えて腕を組んで俯いてそう呟くまで、正臣は何も言わなかった。

「なんかやっべぇのを感じ取って、その引き戸にしか集中できなくなって、じっとみてたら赤黒いもやみたいなんがでてきて、それが俺の目の前まできて、そのままとってくおうとしていた。そう言いたいんだな?」

呟いて、そのままひどく流ちょうな口調で、帝人がついさっき言ったことを繰り返した。
帝人は少しぼやけて曖昧な記憶を辿りながらだったので、正臣が語る程緩慢な流れでは無かったけれど。

「…うん。そのまんまだね」

「で、お前は俺をかばったと」

「…そうだね」

「白昼夢だな」

「え」

ばっと顔を上げて帝人を見据えたかと思えば、正臣はきっぱりと言い放った。

「はくちゅうむ?」

帝人は繰り返す。なんだそれ。いや、白昼夢は知っている。起きている真昼に見る夢だ。
その言葉を理解したが、正臣に付随するその言葉の持つ真意は、すぐには理解できなかった。

(はくちゅうむ、かもしれないけれど…)

首を傾げる帝人をよそに、正臣は続ける。声も表情も瞳も、笑わない琥珀のまま。

「でもって予知夢だ」

「……はい…?」